東京駅と武雄温泉楼門

日付 平成27年4月2日
会長 由見真治郎

昨年12月20日に開業から100周年を迎えた東京駅丸の内駅舎は、明治、大正期を代表する建築家 辰野金吾の設計により創建されました。東京駅や日本銀行本館の建築設計で知られる辰野金吾の作品は、大分市内には第二十三国立銀行本店があり、現在も大分銀行赤レンガ館として国指定の有形文化財に登録されています。1913年に完成した二十三銀行は、佐伯建築事務所(現在の佐伯建設)の創始者が辰野片岡建築事務所在職中に工事の現場主任として手掛けた建物で、赤レンガに白い御影石の帯は典型的な辰野式の建築物として専門家の間でも見学者が絶えなかったと言います。

辰野金吾は1854年肥前国唐津に生まれ、工部大学校(のちの帝国大学工科大学、現在の東京大学工学部)を首席で卒業後イギリスへ留学し、ロンドン大学の建築課程で学びながら建築事務所の研修生として実務を経験します。日本へ帰国後、工部大学校の教授となり、その後、帝国大学工科大学学長に就任しますが突然辞職し、1903年、東京に辰野葛西建築事務所、1905年には大阪に辰野片岡建築事務所を開設しました。当時、日本には無かった「建築家」という職能の確立に挑みますが、最初は仕事の依頼も無く前途多難な船出だったようです。そんな時に設計の依頼があったのが中央停車場(現在の東京駅丸の内駅舎)でしたが、辰野金吾にとって「日本銀行本館」、「帝国議会議事堂」、そして「中央停車場」の建築設計は絶対に手掛けたいと願っていた仕事です。近代化を急ぐ明治政府の重要な政策の一つに、近代国家に相応しい洋風建築の推進がありましたが、海外から外国人の建築家を招聘し、国家施設の建設と日本人の西洋建築家育成を急ぐなか、「日本銀行本館」は初めて日本人の建築家が設計する記念すべき国家的プロジェクトとして辰野金吾が帝国大学在職中に設計した作品です。辰野金吾にとって2つ目の夢である「中央停車場」の設計依頼は、国家の威信を掛けたプロジェクトであり、駅舎の設計に足掛け8年、工事の施工には実質5年7か月の年月を経て無事完成します。

関東大震災でも大きな被害を受けなかった東京駅ですが、1945年の東京大空襲で南北のドームや屋根、内装が焼失しました。戦後まもなく戦災復興工事に取り掛かり再建しますが、建物の老朽化と耐震改修が必要となったことから、2007年5月に駅舎保存・復元工事に着工しました。この工事は、駅舎を解体して建て直すのではなく、現存する駅舎の外壁など主要部分を可能な限り保存、活用して創建時の姿に蘇らせるもので、古い写真や図面、文献資料をもとに専門家や伝統職人の知恵と技で当時の仕様、工法を可能な限り採用し、復元しました。この復元工事では、丸の内駅舎のシンボルである南北ドームの天井に飾られている干支のレリーフも復刻されましたが、十二支のうち卯、酉、午、子の四つが欠けており、JR東日本によると当時の資料や記録が無く謎とされていました。南北ドームの天井は八角形のため、東西南北を示す干支が描かれていないことに何か意味があるのではと関係者の間で謎解きが続くなか、干支が欠けていることが気になっていた東京ステーションホテルの社員が、今年で100周年を迎える楼門を所有する武雄温泉に「動物の絵はありますか?」と問い合わせたことから、2階天井の四隅に30センチ四方の杉板に彫りこまれた残りの干支が見つかり話題となりました。国指定重要文化財である武雄温泉の楼門は、東京駅開業の翌年1915年に竣工した和風の木造建築ですが、この設計を手掛けたのも辰野金吾です。絶対に手掛けたいと願っていた中央停車場と故郷佐賀県の楼門。この二つの拠点を結ぶ重要文化財で十二支が揃ったことから武雄温泉の関係者は、「辰野金吾の遊び心では…」と想像を膨らませています。文化庁は「八角形の天井に干支を配置する際、デザイン的に東西南北を避けたのでは」と冷静に受け止めていますが、武雄温泉の関係者は専門家に調査を依頼し、話題作りのためにも何とか謎を解明したいと言います。

武雄温泉楼門の記念事業実行委員会では、4月4日から12日を100周年週間と位置づけ、イベントや祝賀会で盛り上げるとしていますが、皆さんも辰野金吾干支の謎を確かめに行かれてみてはいかがでしょうか?