トルコと日本の友好物語

日付 2015/03/19
会長 由見 真治朗

今日はエルトゥールル号の遭難事件についてお話しさせていただきます。
1890年9月16日、和歌山県の南端にある大島の海域は台風接近のため、猛烈な風と波で大荒れでしたが、樫野埼の灯台守が戸を叩く音を聞き外へ出ると、数人の男たちが助けを求めています。海を見ると岩礁に激突した軍艦が座礁し、乗組員650人が海へ投げ出されていました。乗組員は外国人で言葉も通じませんが、万国信号本からオスマン帝国の人達であることが分かりました。すぐさま助けを求め、多くの村人が自分の危険を顧みず救助活動を行いますが、結局69名しか助かりませんでした。
村の人々は介抱にあたりましたが、60軒程度の貧しく小さな集落に69名もの人達が収容されたため、どんどん食料の蓄えが減り、台風で漁にも出られずとうとう底をつきます。各家庭では非常食としてニワトリを飼っていますが、これを食べてしまったら本当に何も残りません。それでも、そのニワトリを食べさせて乗組員は一命を取り留めました。
エルトゥールル号は、日本への親善使節団として来日しましたが、トルコ海軍少将一行は明治天皇に拝謁し、帰国の途中に樫野崎の沖で事故に遭ったのです。
大島の住民は不眠不休で生存者の介護を行い、和歌山県知事が明治天皇へ言上したため、政府を挙げての支援を命じ、直ちに神戸へ移送、宮内省の侍医を派遣しました。69名の乗組員は治療を受けた後、秋山真之など海兵17期生が乗る比叡と金剛2隻の軍艦で無事にイスタンブールへ帰ることが出来ました。
それから95年後の1985年のイラン・イラク戦争でのこと。3月17日、イラクのフセイン大統領が「今から48時間後、イランの上空を通過するすべての航空機を攻撃対象とする」と突然通告したのです。各国は自国民救出のため救援機を飛ばしましたが、日本は当時の自衛隊法で海外への派遣禁止のため、自衛隊機を送ることが出来ません。イランには450人もの在留邦人が居たため、政府は日本航空に打診しますが「イラン、イラク両国の安全保証を取り付けなければ特別便は飛ばせない」との方針を打ち出します。現地の大使館員は各国に要請し、わずかな座席を分けて貰うものの200席以上足りません。刻々と期限が迫るなか、野村豊駐イラン大使は懇意にしていたイラン駐在のビルセルトルコ大使の元へ向かいます。「日本人を救う手はないか?」野村大使の相談を受けたビルセル大使は、本国トルコのオザル首相へ電報を打ちます。「日本人を救うためトルコの特別機を飛ばせないか?」同じ頃、トルコ経済成長の手助けをした伊藤忠商事の森永尭駐在員もオザル首相へ日本人の救出を依頼しました。「日本人を救うため、トルコ人を危険に曝せるのか…」オザル首相は悩んだ挙句、トルコ航空の特別便を飛ばす決断をしたのです。そして30年前の今日、3月19日午後3時、トルコの特別機2機がテヘランの空港へ到着しました。無差別攻撃まで残り4時間を切り、現地に残された日本人215名は特別機で飛び立ちましたが、トルコ領空へ脱出したのはタイムリミットまでわずか1時間15分前でした。
この日本人脱出劇のさなか、テヘランには500名以上のトルコ人が残されていましたが、何故、自国民よりも先に日本人を救出してくれたのでしょうか?
ウトカン駐日大使は「エルトゥールル号の借りを返しただけです」と短くコメントしましたが、それは95年前の遭難事件でトルコの乗組員を助けてくれた日本人への恩返しだったのです。トルコは親日国として知られていますが、このことがきっかけであるとされています。
トルコと日本の友好関係はこれだけではありません。1999年のトルコ大地震では日本は世界に先駆けて国際緊急援助隊を派遣しましたが、海上自衛隊輸送艦おおすみの艦長は、

「イラン・イラク戦争で邦人215名を救出してくれたトルコの恩に報いなければならない」

と訓示をしました。2011年の東日本大震災では、世界中から20以上の国々が救援隊を派遣してくれましたが、福島第一原発事故の深刻さが伝わると撤収する国が続出する中、約3週間も被災地に留まり、行方不明者の救助や医療活動、ガレキの撤去など最前線で活動してくれたのもトルコなのです。深刻な原発事故に見舞われた異国の地で支援活動を続けることの困難さを考えれば、トルコ人の勇気と日本への厚い友情が分かるはずです。大島の住民たちは、ロータリー奉仕の理念である他人のことを思いやり他人のために尽くすということを命懸けで示し、その勇気ある行動が95年後に215名もの日本人の命を救い、トルコと日本が友情の絆で結ばれたのです。